2013年8月22日木曜日

変人という人種或いは幻影

マイノリティであることは心地よい。少数派であることそれ自体が希少価値であり、他者の承認を必要としないアイデンティティーたりうるからだ。
大きく分けて、他者と自身を比較したとき、似ていることに安心するタイプの人間と、異なることに安心するタイプの人間がいる。どちらが好ましいなどという話ではなく、ただそう在るというだけだ。

さて、世の中に変人と呼ばれる人種が存在する。少し変わった人間や言動が予測できない人間、果ては絶対に関わりたくないと思わせるほど奇抜な言動をする人間、様々なタイプが文脈によって含まれたり含まれなかったりする。
一方、自称変人というものが存在する。これは本物(?)の変人ではなく、他者と異なる自分に安心したい、マイノリティであることに酔いたい人々だ。たとえば僕にとって想像しやすい例を挙げると、特にアニメに熱中しているわけではないが聞き齧ったアニメ談義などをしてみて周囲からのオタク認定を喜ぶ、或いは未成年での喫煙や飲酒を自慢し、他者と異なる行動をしている自分に酔う、そのような人種である。探せば意外といるものだ。
逆のケースとして、マイノリティであるが故に周囲から変人認定を受けることが考えられるが、これは広義の変人に含まれるだろう。

さて、ここまで敢えて定義を避けてきたが、変人とは何なのか、或いは変人は何が違うのかということは大いに気になるところである。とりあえずここでは、常識人(自身が変人でない、或いは変人でありたくないと考える人間)から敬遠されがちなレベルの、少し狭い範囲での変人について考察してみたい。
まず自称変人については、マイノリティであることをアイデンティティーとする心の動きは、もはや一般大衆の心理そのものである。これを変人たる条件に含めないことには納得してもらえるだろう。
また、例えばオタクについて考えてみると、非ヲタの人々とは趣味嗜好が大いに異なるが、これが変人である十分条件たりうるかというと、極めて疑わしい。

ここまでで、ひとつの仮説が持ち上がる。変人とは趣味嗜好等や環境など本人の持つ情報ではなく、言動(振る舞い)により定まるのではないだろうか。

実際、我々が他者を変人と認めるとき、参考にされているのは間違いなく当人の言動である。家庭事情や政治的思想などは考慮されない。
趣味嗜好から変人認定されるケースもあると思うかもしれないが、実際には、それに基づいた言動が普通と言い難いから変人と見なされるだけで、変わった趣味を持っていてもそれを大っぴらにアピールしない場合は変人と見なされないことも多い。

これは変人認定に限らないが、一般に我々が他者を評価する際に用いる情報は、言動か環境に関するもののみであり、当人の本質(もっとも、そんなものが存在するとすればの話だが)は考慮されない。犯罪の報道などでありがちな、近隣住民が容疑者についてあれこれ言う内容と事件のギャップなどがこの事実を裏付けてくれる。
ここで問題になるのは、我々の見る/聞く言動とは、当人そのものについての説明たり得ないということだ。先の犯罪報道の例とは逆に、変人的言動をしている人間が実は極めて常識的な人間だった、というケースは十分考えられる。

つまり、言動は変人の定義に不十分、或いは不適切である。はじめの仮説では、自称変人と本物の変人(そんなものが定義できるとすれば、だが)の区別は存在しないことになってしまう。

そこで、そもそも他者との言動の差異は何を要因として発生するものなのかを考えてみよう。
これは極めて難しい。性格、の一言で済ますことはできるが、本質的な解決にはならない。そもそも日常的な意味において性格とは、人間の言動の一部を抽出・単純化して語るためのものである。語り手の持つ情報のみが抽出され、人間を語ることのできる形容詞などへと単純化される。つまり、性格という言葉で語るとき、他者との違いたりうる些細な特徴は切り捨てられやすい。

では、言動を決定する、よりプリミティブな要素とは何なのか。僕の考えだが、それは価値観とそれに基づく行動規則(ポリシー)である。
ここで言う価値観とは、簡単に言えば「何を利益とみなし、何を損害とみなし、それらにどのような重み付けがなされるか」である。(なお、ここでは感情など含め、当人が喜ぶあらゆる事柄を利益、当人が望まないあらゆる事柄を損害と呼ぶことにする)
例えば「宝くじだって買わなきゃ当たらない」という論法、これは可能性(期待値)や当たるかもしれないという期待の感情を大きな利益とみなし、コストをそれより小さく評価した結果の言動である。
逆に「宝くじの値段は賞金の期待値より低い」という論法は、可能性を期待値として評価し、コストをそれと同じ重み付けで評価した結果と言える。
「宝くじは夢を買っている」という論法は、金銭の期待値ではなく可能性そのものを利益とし、それに合う対価としてコストを評価した結果であろう。
他にも、リスクを損害と見なすか、心理的な利益と金銭的な利益、或いは社会的な利益(良好な人間関係や権力など)のどれを重く見るか、など個人によって様々な差異がある。
また、「利益のためにリスクを厭わない」など、利益と損害の評価(算定)後に、それを踏まえて何を優先して行動するのか、を行動規則と呼ぶことにする。
一般的に、欲望などは価値観により発生し、理性による我慢や抑制、やる気などは行動規則の適用により発生する。そういう基準でこれらを区別するとわかりやすいだろう。

前置きが長くなったが、この考え方によると、「言動が不可解」というのは主に2種類に大別できる。それは、「価値観や行動規則が不明瞭」という場合と、「価値観や行動規則は判明しているが、そのような価値観や行動規則を持つ理由が理解できない」という場合だ。

まず、前者。これはよく知らない人間に対して抱く印象であるが、付き合いの長い人間に対しても考えうるものである。端的に「何を考えているのかわからない」「ミステリアス」などの言葉で表される印象だ。
対して後者はあまり経験がないと思われるかもしれないが、これも実は身近なものである。簡単に言えば「言いたいことはわかるが納得できない」といった感じだろうか。
例えば、「数学やパズルは問題が解けた瞬間が気持ちいいから好きだ」という考え方は結構あるらしい。僕もそういう考え方が存在することはわかるが、到底理解できない。僕にとって数学の本質は構築する概念の美しさであって問題解決はそのオマケだし、パズルは解く過程が面白いだけで、解けたパズルは単なる副産物だ。
他にも、「犬より猫がかわいい」など。言いたいことはわかるのだが、僕の感情は全く動かない。
他にも、きのこたけのこ論争、納豆の好き嫌いなど、数をあげればキリがない。
人間に対して「理解できない」という言葉が使われるとき、大抵は後者のケースである。価値観や行動規則そのものではなく、それらが成立している理由が理解できないのだ。

我々の考える「変人」がこれらのどちらか(或いは両方)に属することは納得してもらえることと思う。では、前者と後者のどちらが我々の呼びたい「変人」に近いのだろうか?
これもまた難問である。ミステリアスという言葉が当てはまるからといって変人だとは限らないし、犬と猫の例のように、必ずしも理解できない対象が変人だというわけでもない。

ここで重要となるもうひとつの概念、それがマイノリティ(少数派)である。
犬或いは猫が好きで何故変人扱いされないか。それは、どちらもありふれたものだからである。逆に、「犬よりガマガエルの方がカワイイ」などと言う者がいれば、少なくとも日本では変人扱いされても違和感はない。これがマイノリティであることの力だ。

しかし、マイノリティにも様々なレベルがある。例えば、アフリカの○○民族にとっての美人の基準とは云々、などの話がある。こういった人々は、世界や日本の人口から見れば間違いなくマイノリティで、かつ我々にはその価値観や行動規則が不明瞭かつ理解が困難だ。
では我々は世界中の異なる価値観を持つコミュニティの人々を変人と呼ぶだろうか?おそらくそうはならないだろう。

このことは我々に重要な示唆を与える。すなわち、「変人」という称号の適用範囲は、まず人間の属するコミュニティなど、当人以外の要因によって絞られるということである。犬よりガマガエルが好きな変人も、もしどこか遠い外国の密林かどこかで生まれていたら、我々は変人とは見なさなかったはずだ(アマゾンにガマガエルって生息してないかな…)。
一方で、遠い過去、遠い異国に生まれた音楽家や学者などに関するエピソードを聞いて我々が変人認定する事例なども少なからず経験があるだろう。
では、我々が変人認定しようとする人間はどのような範囲の人間か?
おそらくその答えは、我々の社会と同じようなルールが適用されると我々が考えるコミュニティに属する人間である。
現代の日本社会はもちろんのことだが、過去の西洋なども、「現代日本の社会には西洋的価値観が大きく影響している」と信じる人々から見れば、同様に変人認定の対象たりうるコミュニティなのだ。

そう考えると、我々が誰かを変人とみなす条件は
・現代日本或いは我々が属するコミュニティと類似する常識やルールが適用されるコミュニティに属している人間のうち、
・我々の属するコミュニティ内で、言動の傾向がマイノリティとみなされ、
・判定者がその根底にある価値観や行動規則を知らない、或いは知ってなお理解できないような人物
ということになる。例えば「理解できない」のが部分的なのか全体的なのか等の程度の問題はあるが、これは我々が想定した「変人」の条件としてなかなか精度が良さそうだ。程度の問題も、議論の余地はあるが、そのまま変人度合いとして考えることは可能だろう。

変人は、しばしば社会不適合者として扱われるが、それもこの結論から考えれば(善悪を無視すれば)自然に説明される。我々の属するコミュニティのマジョリティ(多数派)が変人判定の基準となっており、また我々が彼ら/彼女らを知り、或いは理解できるかどうかに依存した称号なのだから、変人が敬遠、忌避されがちなのは必然である。

言い方を変えれば、社会というコミュニティ、またそれに属する我々こそが「変人」という称号を与えられた人間、言わば「他称・変人」を生産しているのだ。
僕は、これを非常に好ましくない事態だと考えている。変人を社会の中核から排除することは、そのまま社会が多様性を喪失することに直結する。社会が進化し、或いは価値を生産しつづけるのは、多様性があるためだ。マジョリティの価値観や常識、そういったものを塗り替えるためには、多様性という引き出しからマイノリティの価値観、新たな価値を引っ張り出す必要がある。
我々は、他ならぬ自らの手でその進化の可能性を排除し、社会の未来を閉じようとしているのだ。その先にあるのは安定ではない。動物も自然環境も、変わらないように見えて代謝と成長を怠らない。創造と進化なき安定とは停滞、即ち社会の緩やかな死である。


ここまで常識人から見た変人について考察したが、逆に変人にとっての変人がどのようなものか、ということについてはそもそも考察が無意味だと思われる。
多くの変人がマイノリティでありつづけている、つまりマジョリティに迎合していないことから察するに、そもそも他人の価値観や行動規則を尊重することこそあれど理解することに必要を感じていないはずである。
変人が他人を変人と認めるとき、それは自身の意識から一段上の客観的な視点からの、或いは想像上の仮想的常識人の考えを模倣した上での判断なのだろう。まあ本物の変人の考えることなど僕には知る由も無いが。


僕は変人の排斥が好ましくないと述べた。では我々は変人とどう接するべきなのだろうか。
先述の通り、変人が避けられるのは我々の無知や不理解に起因するものだと考えられる。
だが、逆に我々は変人でない他人の何を理解しているというのだろうか?
僕は「一般に我々が他者を評価する際に用いる情報は、言動か環境に関するもののみである」と述べた。しかし、一体我々は何人の知人に自身の価値観や行動規則を語ったことがあるだろう。いや俺はあるけど。
我々の多くは価値観や行動規則そのものを理解してもらう行動を起こしていないのではないか。意識してか無意識か、自身の言動から「察してもらう」ことを期待してはいなかったか?
だがそんなことは不可能だ。我々は親しい友人のことすら、完璧に模倣して演じられはしない。言動から察してもらえるレベルなどその程度だ。

理解者など存在しない。我々は理解されてなどいないのだ。語りもしないことを言動から完璧に把握してもらえるなど到底ありえない。
あなたが理解していると思っている他人のことも、本当は全然わかってなどいないのだ。多くの信頼関係は、そんな曖昧な勘違いの上に成り立っている。そんなことにも気づかず、我々は深い友情が相互理解に基づくものだなどと見当違いの考えを信じ込んでいる。

我々は決して互いを理解することはない。その点において、変人も常識人も全く変わりはないのである。
しかし我々は、しばしば変人でない他人を理解しているという幻想に囚われる。常識人を常識人たらしめるのは、「他人に自分のことを理解したと錯覚させる能力」なのだ。
我々が理解できない変人こそ、あるがままの「他者」であり、自分が理解していると盲信するその相手こそがあなたの目を欺いている。

なんと皮肉なことか。

僕には、そのような手段も目的も理解できない能力を日常的に使う「常識人」の方が、変人より余程奇特に思われてならない。
(串カツがお送りしました)

2013年8月21日水曜日

SPF50+なんてあてにならない。

夏は狂気じみた季節だと思う。

お久しぶりです。増田です。元石崎です。
センター終わったら一度ブログ更新しようと考えていたのですが、
二次試験終わったら更新しよう、後期終わったら、卒業旅行終わったら…
みたいにズルズルズルズルとサボり続けて来てしまいました。
そして今回遂にネタが手に入ったので更新するに至りました!

大学生活の話しまーす。

今回は「遠泳訓練」についてです。
ウチの大学では必ず一年生が遠泳を行うというキチガイじみた行事があります。
まぁ大学の特色上しょうがないことなんです。


場所は千葉県、富浦。これがとんでもなく田舎。
海岸こそあれど海水浴なんてする人なんかいない。
そもそも人いない。
たまに通るは老人ばかり。


そんなのんびりした逃げ場のない場所で救命胴衣の装着だとか
ライフラフトへの乗り込みだとか、岸壁(3メートルくらい)からの
飛び込みだとかを練習します。

特にそれら訓練自体は特筆すべきことなし。
飛び込みの仕方がスタイリッシュだったぐらい。
やってみせてあげたいくらいです。

遠泳が辛かった。
泳ぎはまぁ苦労しないんだけど尿意が…
以下ややお下品な話になりますが
海水に二時間以上浸かってるととんでもなく尿意に襲われるんです。
僕ら実習生は「泳ぎながら済ませられるか」という課題にぶち当たったのです。
(因みにサーファーなども水中で済ませてしまうらしい)
最終的にコンチネンス出来たのかはご想像にお任せ致しましょう。

あと辛かったのは日焼け。
あれだけベッタベッタに塗っても焼ける。
ふざけるな。


なんやかんやで僕たちはあっさりと遠泳実習を終えました。
しかし、帰ってきてから一日の休息を挟み次の日には
一ヶ月間「船舶実習」に向かうのです。

船舶実習については次回。

2013年8月6日火曜日

お久しぶりです(^ω^)
島田です(順子ってもう恥ずかしいので良いですか…?笑)

国高を卒業してからもう半年くらい経ちますね…
今まで自転車で7分だったところを1時間以上かけて大学へ通うのはまだまだ慣れません(´-ω-`)笑

近況を書きます(。・・。)
私はまだ将来やりたいことが見つかっていないので、大学では色々なものを見て世界を広げたいなと思って、国際問題啓発団体SALという学生団体に入りました。名前は硬いですが、世界の観光では行かないような地域に行ってそこで見たものや人を色んな手段で伝える、って感じの団体です。
私はそれで今年の9月の3週間、インドとネパールに行きます。中には中東とかに行く人もいてビザを取るのに苦労していたりします(´+ω+`)
あとは日本にいる難民に密着してドキュメンタリーを作ったり、なんだか入学時には考えもしなかった事をしようとしてますww
あとは鈍らないように?(笑)運動のサークルに入ってぼちぼちやっております…。


最後に、私は4400のみんなにすごく会いたいです!(*-ω-*) 笑

では‼ww