2013年10月30日水曜日

bokuno natsuyasumi ~写真編~

増田です。
長々と続いたこの「僕の夏休み」シリーズもついに最終回。
今回は今までのっけきれなかった写真共をのっけます。

 船上編

 総練アイス。総員退船訓練(だったかな?)をやった日はアイスが出る。

船内唯一の自販機。もしかしたら実習生が知らない場所に他にもあるのかも。
ネクター、レモンスカッシュ、リボンシトロンは最初から人気が高い。
アイス抹茶ラテは意外とおいしいと話題になり徐々に人気になった。
外での活動がある日などには自販機に列ができ、ほぼすべての商品が売り切れる(コーヒー以外)。コーヒー飲むくらいなら水のほうがましだ。
商品は船内のどこかで保管してあるようで、朝の掃除の際に自販機当番になった者が新しいのを入れることとなる。

 東京湾の真ん中から。向こうに見えるのはディズ〇ーシー。
人里から隔絶された牢獄にいるのだということを早くも感じさせる。

海は広いな大きいな・・・

夕日だったか朝日だったかの写真。船の進路変わるし、陸見えないので時間がわからない写真は朝日か夕日かわからない。

 ここが甲板。毎朝、毎昼体操する。ヤシの実かける(前回の記事参照)のもここ。

船の窓からの光景。案外水面近い。波荒れてたら結構まずそう。
余談ですけど船にありがちなこの丸窓、スカッツルといいます。
さらに余談、丸いのはねじれに強いかららしい。
(逆に言えばねじれの力がかかりにくい船の上部では別に四角い窓でもいい。)
さらにさらに余談、スカッツルごとに内側に金属の重い蓋が上についている。
留め具を外すと蓋がバタンと閉じてくる。頭など挟んだらひとたまりもない。おお怖。


 瀬戸内海で停泊。なんか中国の詩人が詩でも詠んでそうな景色。
波もなく至って平穏。陸まで泳いでいけそうな距離のくせに地デジが入らないのには心底うんざりさせられたよ。


 ぬめりとした海面。iPhoneの待ち受けにでもどうぞ。

総練アイス(二度目)。このアイスを選択してくるあたり、仕入れ人のセンスが光る。


今回の実習では部活の先輩からの差し入れとしていくつかわけのわからないものをプレゼントされた。
それを僕ら一年生三人で分けたんだ。
分けるのを二人に任せたところ「増えるわかめ」「とろろ昆布」「乾燥昆布」の使い勝手悪いものの三大巨頭すべてが僕に押し付けられた。しかもどれもが業務用サイズ。
これは誰かに押し付けるほかにない。
船内にはあれだけの晩御飯を食べておきながら持ち込んだインスタント麺を食べる猛者がいる。
そいつらに押し付けよう!↓


 ウン。
増えすぎた。わかめと麺の体積がほぼ同じ。なんだこれ。
明らかに増えすぎたのだけれど食べてもらいました。ありがとうございました。

もっといいカメラが欲しい。強く思った瞬間。

上陸編

上陸回数は二回!新潟!下関!以上!

新潟上陸

新潟では友達数人で行動。完全な無計画のまま出発し、結局時間を持て余し残念な結果に…
でも楽しかった。
写真はほぼない。
同行した友達の一人の伯父さんがお菓子屋さん(最近三店舗目ができたとか。今月末には都心の某有名百貨店の物産展にも出店らしい)の経営主。よってお世話になりました。 
めちゃくちゃおいしいさまざまなお菓子、ありがとうございました。

下関上陸

前回の上陸での反省から今回は一人旅へ。写真撮りまくった気の向くままに歩き回った。行きたい場所は無理してでも行った。めちゃくちゃ充実感あった。

門司

 え、もしかして夕方の門司とかいいんじゃない?と思い、下船してすぐに門司駅へ。
のんびりとした一日の終わりに立ち会った。
 実は門司駅の周辺にも赤レンガの倉庫が。
下船中の規則に従って正服で行動していたら
「実習生の方ですよね?東京から来たんでしょう?あそこの光景もきれいだよ」と教えられた場所。
 写真では表現しにくいがグッときた。

外泊しない人たちは日没後には船に戻り、船で寝なくてはいけない。
下関に戻る。


門司港

二日目は船に乗って(実習の船ではない)下関から門司港へ。

 門司港レトロという観光スポットを巡る。
商船関連の建物が多く、興味をひかれる。

 めちゃくちゃ暑い

 門司港は焼きカレーが有名なんだとか。焼きカレーの店が周辺に多く存在している。
その中でも一番評判のよさげな店をググり、発見したのがこの店。
看板の色合い的がインド人が本場のスープカレーを食わせる店の雰囲気を醸している。
 実際は、こじんまりとした喫茶店のような内装だ。店の広さはさして大きいわけでもない。むしろ小さい店。
自分は開店とほぼ同時に入ったのだが次から次へと常連さんが入店しすぐにいっぱいになった。
これはあたりか!

ついに出てきた焼きカレー!
真ん中にはフライドオニオン、その下に半熟の卵が入っていてそれを崩して食べるようだ。
めちゃくちゃおいしかった。
量は見た目よりも多くて文句の付けどころもないくらい良かった。


小倉

その後小倉に移動。「おぐら」じゃなくて「こくら」。小倉は割と開けた土地。
ビルが並び 、ブックオフもあれば細かい飲食店やデパートもある。
立川レベルかも。

そんなところから少し歩いていくと
小倉城が現れる。
小倉城は小さな城で、中は資料館になっている。
庭園も入れる。
夏にはここでお化け屋敷をやるようだ。
ちょっと本格的。


ここでほかに行くところがないか携帯で調べてみる。
電車とバスを乗り継ぐとハマユウの群生地に行けるらしく、しかもこの時期はちょうど開花時期のようだ。これは行くしかない。
電車にバスに数時間。
よくよく調べてみると「ハマユウの群生地」の場所についての記述がサイトによって微妙に違う。
しかもgoogleマップがおバカなせいで住所を入力しても頓珍漢な場所を示してくる。
これは本当にたどり着けるのか…

どこだここ…
サイトのいうバス停で降り、敗北を確信した。
田舎すぎる。
ハマユウの群生地といった雰囲気ではない。というか何にもなさそう。
日陰も人の姿もなく、帰りのバスもしばらく来ない。
門限の時間も近づいている。
 泣きそうになりながら帰る。

三日目

下関でぶらつくことに。

なんか観光スポットあるのかと思いきやほぼ何もなかった。
♪ 山のなかへ 山のなかへ
 行ってみたいと思いせんか(正服、革靴で)

下関は特に何がある
というような街でもなかったけれどのんびりとした時間を過ごせた。

おまけ

実習期間が終わり、僕らは神戸で強制的に見放されることになる。
しかしそれは好機だ。
ただ家に帰るのなってもったいない。

そうだ明石に行こう


 明石。そういわれて人は何を思い浮かべるであろうか。
おそらくは「日本標準時子午線(JSTM)」をまず考える。
しかし、それが明石を通ることを知っていても実際に足を運んで見に行く機会というのは少ない。

割と静かなこの町の名所、明石市立天文科学館。
この建物の時計塔の部分が子午線上に立っているとういうのは有名な話。
この科学館のウリはそれだけでない。
 




これだ!!
 プラネタリウム!
かっこいいだろ!
これ撮るのに苦労したんだぜ!
これが巷で話題の現在動いている日本最古のプラネタリウムだ!
ちなみに「イエナさん」と呼ばれている。

 ↑名前のもとはこれ。
「カール ツアイス イエナ 社製」だから。
S〇NYのカメラを使っている人ならこの社名には少なからず聞き覚えあるはず。


かなりの枚数プラネタリウムの写真撮った後展望台へ。
明石海峡をしばらく眺めた後、ついに一か月の旅を終えた。


当初いやだった実習も楽しかったし、下船中もいろいろな発見ができた夏休みでした。
これで夏休みの生活についての発表を終わります。



Mileage makes champions.




かの有名な生物教師ita3は言った、
「常に新しい時間と空間での充実を!!時には黙々と」と―――



お久しぶりです。トヨマネです。
さっきクラスの共用アカウントにログインした流れでグッチ見せの動画を観て、自分の早口と滑舌の悪さ、そして猫背に驚愕しました。
猫背は大学に入ってかなり治ったと思います。
近況報告をします。

だいたいの人は知っていると思いますが、僕は大学でボート部に入りました。
よく間違えられますがヨットではありません。カヌーでもなければカヤックでもありません。ボートです。
ボートって何だよ、という人は(基本そうだと思いますが)東大ボート部の新歓PVを観てもらえれば、何となくどういう競技かはわかってもらえると思います。→http://www.youtube.com/watch?v=yJqCoflv-hA&feature=youtu.be
簡単に言えば、2000mをいかに速く漕ぎきるか、それだけに命を懸けるというスポーツです。陸上の中距離に似ているところがあると思います。
そんなボート部になぜ入ったかというと、僕はもともとアウトドア系のスポーツに興味があり、ワンゲルや自転車、ヨットなどいろいろ考えていたのですが、試乗会に行ったのをきっかけに、ほとんど入る気のなかったボート部に魅力を感じ、最終的にボート部に落ち着いた、という次第です。
このボート部、正直に言って練習はキツいです。部活です。ガチです。
練習だるいなー、と思うこともあります。食堂で女の子とイチャイチャするテニサー共を見て殺意を覚えることもあります。(僕の代は男:女=19:1です)
ですが、辛い練習を乗り越えて勝利を手にした時の喜びは、何ものにも代え難いものがあります。
勝つとボートは死ぬほど楽しい。これはガチ。

そんなわけで、僕はいまとてつもなく充実した日々を送ることができています。

目下の目標は、四月の下旬に行われる一番のライバル大である一橋との対校戦「東商戦」で一橋をぶっ倒すことと、新歓で国高の卒業生を東大ボート部に入れること、そして、女子をいっぱい入れることです。

ではまたいつか。

2013年10月29日火曜日

勉強とカエルと私


どどーん。 

カストロです。お久しぶりです。

今年こそ甲子園と日本シリーズを思う存分見るぞ!と思っていましたが足踏みして見れていません。

今年は野球界いろいろあったんですけどねー



本当に睡眠学習ができないかなんて考えながら今日も寝て・・・



うそです勉強しています。皆さんはどうしているのでしょう。






浪人生になってからなぜかカエルに愛着がわくようになりました。

カエルの可愛さにやられてしまったのです。

カエルの何を考えているのかわからない顔がいいんです。

今は毎日勉強とカエルのことでいっぱいです。

なんなんでしょうか。浪人して頭おかしくなったのでしょうか。

とにかく今はそんな感じです。



「大学に入ったらやりたいこと決まるかなー」

と思っていましたが、なれなかったものですから

「じゃあ考えてみよう」と思ったらこうなってしまいました。

今思えば入る前に大体決まってよかったなーと思います。

そういう時間ができたという意味では浪人は必要だったかな、

と選択権がないくせに浪人を肯定しています。

多分一年くらいどうにかなるでしょう。



あとは入るだけなんですがねー そこが問題です。

もう一回あの生物おじさんをぎゃふんと言わせたいものです。

受かったら腰に抜かしませんかね(笑)



と、いうわけでやるしかないですね。

また会えるとうれしいです

アディ・・

ではでは。


(私事ですが携帯は壊れているので悪しからず。)

2013年10月27日日曜日

僕の夏休み ~生活編~

なんかもう気候も急に涼しくなってきてしまって10月の最後の日が誕生日の僕がわくわくを隠し切れない、そんな時期になりましたね。
増田です。

前回大好評(だったと思うし、そうに違いない)だった「船内で缶詰にされた悲劇の夏休み」についての記事の続き書きます。

船内生活編


 まさにこれ。ほぼこれ。この作業服しかほぼ着ない。
夏ということも考慮されて訓練所の青い作業服も貸してもらえるので学校用のこの作業服とそれの二着を回して一か月しのぎます。
 中のシャツだけ洗濯して作業着にファブ〇ーズしておけば一着につき2、3日は持つので実は苦も無く回せる。

 実は特定条件下では私服も着ることあり。


今回の実習では何回か上陸する機会があったのですがその時は学校の正服を着用する義務があり正服着ます。ちなみに「制服」ではなく「正服」。間違えてるわけではなく何故かこう。
 ↑正服の帽子。何となく正服の写真あげるのめんどくさいので(画像処理あんまりしたくない)帽子の写真で我慢ください。
正服は大体海上保安庁のマスコットキャラクターのそれに似ているような似ていないような感じなので参考にどうぞ

うまい。とにかくうまい。
量多い、おかず多い、基本的にご飯お代わり可能、豪華、素材割と良い、実は安い(らしい)。
デメリットといえば食堂が狭い事と太る人が続出したこと、大体の場合急いでかき込むことになるのであんまり味わえないことくらいですかね。

 土用の丑の日にはウナギ。
 和食に見えて純和食ではない
 ハンバーグ…ではないのかね。
 えんびフライ(わかる人だけわかればいい)
たらみのゼリー好きだわ。

 何故ハートにしたし…
 下関出港日の晩に出たフグ刺し。
辛そうで辛くない少し辛いといえば少し辛い気もしなくもないカレー
大きい鍋で作るからなのか肉は柔らかい。
うまい。

住 

六人一部屋。
部屋によって微妙に形は違うが、うちの部屋は扉のすぐ横に二人分のベッドが縦に。
そして部屋の奥(撮影位置)に小さなテーブルとベンチ。
それを挟むようにして二台の二段ベッドが設置されている。
各部屋ごとにヤカン一つとコップが人数分貸し出されている。
写真内で安全靴のまま半分寝っ転がっている不届きものは自分ではない。

乗船した直後の自分のベッド(業界用語では「ボンク」という。「ボンク」でググると似たような画像がたくさん出る)

基本的に自分のプライベートな空間と収納はこのベッドの上とすぐ下にある引出だけ。
引出は鍵をかけられるがこの船が建造されてから30年だか40年は経っており、それ以来一度も変わっていない引出なのでガタガタ。開かないけど鍵は頼りない。

ちなみにベッドのベースの部分にあたるこのストライプの物体、たぶん中は藁。
ストライプの何か→毛布→シーツ 
の順に重ねて布団になる。
毛布の作り方は毛布をそれ用のシーツで覆うだけ。
毛布は軍用毛布みたいなやつ。
訓練所では実習生が降りた後にクリーニングに出すのだが、クリーニングに出すのはシーツだけだという罠。
念のためフ〇ブリーズをかけるがちょっと心配。日干しも出来ないのがつらい。


その他日常


体操。
甲板で体操。ラジオ体操ではない独特の体操をする。古くは海軍の体操に端を発するといわれているが真相のほどは定かではない。
掃除。
自分たちで掃除場所を割り振り掃除をする。トイレ、食堂など。甲板では恒例行事である「甲板流し」が行われる。みんなで一列になってヤシの実を半分にしたブラシでしゃがみながらこすっていく。甲板(デッキ)なのにデッキブラシを使わずに辛いことをやる。




授業
 教室。船の中とはいえ止まっているときは授業もある。
そこそこの人数が集まる部屋のくせに黒板の位置が低かったり席に高低差がなかったりするのでものすごく授業に不向きだと思う。

夕方

巡検。
また掃除。朝と違い掃除の達成度を身に見回りが来る。ボンクが汚いとダメ出しを受ける羽目に。

そのあとに自由時間。

消灯時間までは風呂に入るもよし、テスト勉強するもよし自由な時間。
この時ばかりは私服が認められている。

実は船内に運動室がある。サンドバック、筋トレの道具(フォールディングベンチとかいうのやおもり)、卓球台、壊れかけのロデオボーイ、簡単な釣り具、木刀、くさーい練習用ボクシンググローブ。結構そろっている。
 となりには小さな部屋が二つある。
一つはボードゲームなどの部屋。人生ゲーム、将棋、オセロ(リバーシじゃなくオセロだった)、ジェンガ。
もう一つはギターの部屋。古いギターが置いてある。ギターだけでなく替えの弦、クリーナー、巻き取り機、ピック、スコアなどのグッズが案外豊富。ちなみに同室にはテレビもあり、自由時間にテレビも観られる。電波が繋がるものならね。(さして陸から離れていないようでも地デジが入らないことが多い)

↑ここぞというときには繋がるのがありがたい。

写真はないが別に図書室などもあり。
数学や物理、情報通信系の本も多いが普通の図書もある。
伊坂幸太郎の「マリアビートル」を空き時間をぬって二日で読破。

 以上で夏休み報告、生活編を終わります。
次回で最後にします。勝手に頑張ります。

2013年10月17日木曜日

子供「おなかとせなかが くっつくぞ♪」 …しかしここでひとつの疑問が生じる。

『おなかのへるうた』
どうして おなかが へるのかな
 (生命の維持や肉体の稼働にエネルギーの消費が必須であり、その補給が不可欠だからである。しかし、「何故腹が減るという感覚が発生するのか」という問いに対しては、エネルギーの補給を本能という強いレベルで強制し完遂するためであると答えるのが適当であろう)
けんかをすると へるのかな
 (ケンカにより平常時よりエネルギーの消費が激しくなることは間違いないと考えられる)
なかよししてても へるもんな
 (ケンカは腹が減る一因に過ぎず、ケンカをせずともエネルギーの消費は止まらない。また、仲良くすること自体もエネルギーの消費を必要とする行為・状態であることに留意すべきである)
かあちゃん かあちゃん
 (この箇所は父子家庭等の一部の子供への配慮が必要であろう)
おなかと せなかが くっつくぞ
 (!!??)


日本の童謡には謎が多い。個人的には
「童謡『ふしぎなポケット』におけるポケットを叩くとビスケットが増える事象について、枚数の増加をビスケット破砕のメタファーと考えると幾何級数的増加が想定されるにも関わらず、ビスケットが一枚ずつしか増加しないメカニズム或いはその歌詞の意味に関する考察」
とかも捨てがたいテーマだが、今回は上記の『おなかのへるうた』について考察しよう。

●「おなか」と「せなか」の定義の曖昧さ
・脇腹
脇腹が脇か腹かと問われれば、多くの者が腹だと答えるであろう。そして、脇腹は背中の皮と一枚続きである。
すなわち、脇腹の背中側において腹と背は初めからくっついているといえるのだ。
・臓器
少なくない臓器が「腹」と呼ばれる。腹が痛いと言えば高確率で筋肉か内臓だ。そして、背骨は名前の通り背中であろう。
これらの事実の意味するところは、腹(臓器)と背(骨)は初めから接しているということだ。

以上のことから、腹と背は身体の内外で「くっついて」いる。
しかし歌詞では、まだくっついていないことになっている(この点には議論の余地があるかもしれないが)。すなわち、この歌では腹と背の定義が極端に狭いことがわかる。

●歌詞の曖昧さ
「おなかとせなかが くっつくぞ」の箇所は、回避行動を怠った場合に想定される未来を予言しているともとれるし、食事を強制するため何者かに脅されている(或いは何者かを脅している)ともとれる。
どちらの解釈においても、歌の時点で腹と背はくっついていないことが読み取れるから、以降はこのことを前提として議論を進める。

●腹が減るということ
そもそも、腹が減るとはどういうことなのか。
「おなかとせなかがくっつく」という表現から、胃か腸の内容物の減少と考えるのが妥当な解釈であろう。
前述のように腹や背の定義が狭いと考えると、これらの解釈には不自然な点は無いように思われる。

しかし、童謡である。多少の理不尽が許容されることを考慮すれば、「おなかがへる」という表現が言葉のままの意味である可能性はあり得ないだろうか。
この童謡を聞かせる・歌う対象となる児童は、腹が減ることを本当に「おなか(そのもの)の体積が減少する」ことを想定していることも十分に考えられ、この解釈が不自然だとは言い切れない。

●そもそも本当に腹が「減っている」とは考えられないか
空腹になることと腹が「減る」ことを同一視するには、「腹とみなせる器官の内容物が、その器官或いは腹の一部であるとみなせる」ことが必要かつ十分であろう。
では、ここで想定すべき腹の内容物とは何か。無論、胃なら食物、腸なら排泄物である。
では、これらは我々の肉体の一部と考えられるのだろうか?

食物はそのままでは我々の一部ではない。
食物を口に入れる。
咀嚼し、唾液で一部成分の分解がはじまる。
飲み込み、胃へと落とす。
胃の内部で分解・消化される。
次の消化器官(小腸?)へと送られ、養分が吸収される。
残りカスの水分が大腸で吸収される。
排泄される。

上記ステップのどこからどこまで、食物は我々の肉体の一部だと言えるのだろうか。
まず、養分が吸収された時点から我々の一部であることに異論はないだろう。
ではそれ以前、たとえば食物を飲み込んだ段階ではどうなのか、ここでは意見が分かれる。
これが水だともっとややこしい。
水を摂取すれば、胃液と混ざり一体となる。ということは、水ならば喉を通過し胃に入った時点で我々の一部となっていると言えるかもしれない。
しかし、ここでまた別の疑問が生じる。胃液は肉体の一部と言えるのか?
これはなかなか微妙な問題だ。
たしかに胃液は肉体で生成されるが、常に肉体と分離されており、嘔吐により、完全ではないにしても即座の排出が可能である。
水の場合と似ているのが、二酸化炭素である。二酸化炭素を構成する炭素は肉体の一部であったものだし、二酸化炭素が肉体で生成されたことは間違いない。しかし、血管から肺へ出てきた、呼吸により排出可能な二酸化炭素は、果たして肉体の一部だろうか?

ここで疑問点を少し整理してみよう。

1. 即座に排出可能である胃液は肉体の一部か否か。
2. また、同様に即座に排出可能な二酸化炭素や排泄物は肉体の一部か否か。
3. 同様に即座に排出可能である消化中の食物は肉体の一部か否か。
4. 3がnoなら、食物はどの時点から肉体の一部とみなせるか。

空腹時には胃の中に食物はほとんど無いであろうから、上記の3がyesならは、空腹と腹が「減る」こととは同義と見なせるであろう。

逆に、3がnoならばどうか。
この場合は1と2を考慮する必要がある。
まず、2がyesならば3もyesとするのが自然であるからここでは考えない。

1と2が共にnoであるなら、「即座の排出が可能でない器官を肉体の一部と定義する」という一貫した視点があるのだろう。この場合、抜けかけの乳歯や爪などが肉体の一部と考えられるか否かで別の疑問が生じるが、少なくとも食物についてこのような曖昧さは無いのでここでは議論しない。
この観点からは、腹の内容物の増減こそあれ、腹そのものは「減る」ことがないと結論できる。

では、1と2で答えが異なるとすればどうか。考えられるのは「肉体にポジティブな作用を及ぼすか、そうでないか」の差異による判定である。胃液は消化に貢献するが、二酸化炭素や排泄物の排出は、不要物を捨てる以上の意味はない。
この観点で見ると、食物はその一部とはいえ肉体や生命の維持に貢献するから肉体の一部と考えることができる。
つまり、空腹を腹が「減る」と表現することに正当性を見出だせるのである。

●だからなんなの
ここまで、腹と背はくっつくものか、加えて腹は本当に減っているかどうかについて考察した。
そして、
・腹と背がはじめからくっついている説
・腹と背はくっついていないが、腹は「減る」ものであり、子供がそれを怖れる(ことを想定している)説
・腹と背はくっついておらず、そもそも腹も「減る」ことはない、減るのは内容物でありこれは腹そのものとは見なされないという説
の3つの説を発見し、それぞれについてその根拠を得た。

我々が何気なく歌ってきた童謡にここまでの自由度があること自体は驚くに値しない。いわゆる、大人の視点から解釈した児童文学などに見られる、曖昧さを原因とする解釈の可能性の広さ(すなわち奥深さ)と同質のものであろう。
しかし、文学や和歌においてこうした考察は盛んに行われているが、童謡についてそうした話はなかなか聞かれない(童謡『かごめかごめ』などはその数少ない例外である)。

我々は幼少期に刷り込まれた知識ほど根拠なく受け入れ、頑なに信じこみがちである。
だからこそ、新たな知識や思想をもって、自らの感性や思考の基礎となっているかもしれない幼少期の知識や記憶を整理し再解釈を行い、矛盾や不合理の排除を試みることは重要であろう。
今回の考察をその試みのひとつとして、皆さんの意識の中に埋もれる曖昧な基盤を安定させ、より強固なものにすることに貢献できれば幸いである。




珍しくマトモ系の文章書いたら疲れた……
今更ですが、コメント欄が解放されたので意見などあればそちらにどうぞ。
では、アディダス! (スペイン語で「さようなら」の意)(頼むから流行れ)

2013年10月6日日曜日

⊂( o )⊃

こんにちはこやまです⊂( o )⊃
誕生月に更新しそびれたのでなんとなく更新しにきました⊂( o )⊃
今はこの顔文字がブームです⊂( o )⊃
いっぱいいるとだいぶウザい⊂( o )⊃⊂( o )⊃⊂( o )⊃⊂( o )⊃⊂( o )⊃

京王井の頭線って可愛い子がおおい気がします


どこにいってもなにしてても人間はあんまり変わるもんでもなくて、ゆるゆる好きなことして毎日過ごしています
人生で今が一番、好きな事のために自分で動ける時間だと感じます
この夏は3400の人も結構会えて、みんなあんまり変わってなくて嬉しいです


卒業して成長したことといえば、グラフィック能力?です
サークルで、パソコンで色々つくる技術がめきめき向上してますIllustratorと仲良くなっています楽しいすごく
文化祭の広報のときにこの技術があればとおもうばかりだよね!



去年のこの時期は、

「人生の、ピークが終わったんだ
…よし、しのう⊂( o )⊃☆」

と割と真剣に思っていました
そこから1年という月日が経って、まだ生きてますが、新しいたくさんの出会いがあったり、考え方がちょっと変わるようなものに触れられたり、なんだか捨てたもんじゃないな!と!
おばさんになる前にしにたいとか介護されるまえにしにたいとか、思わなくもないですが、きっと生きてれば何かしらありますね!


では⊂( o )⊃
秋は食欲にきをつけよう

2013年10月4日金曜日

この世界にて最も蔑まれるべき悪徳

串カツです。
チャリで片道30分(当社比)な通学路を常用していますが、大小様々な幾つもの道と交差し、その内には朝晩は交通量のほとんどない道との交差点もあります。
「なんでこんなところに信号が付いてるんだ」とぼやきたくなるようなものもあるのですが、得てしてイライラは重なるもので、合法・違法問わず信号を突破しようと試みるうち結構な割合で、許しがたき愚行を目撃するわけです。


律儀に赤信号を守っていたくせに、誰かが無視するのを目撃すると急に考えを変えて我先にと赤信号を渡り始める愚民共


許しがたいですね。何が悪いって、自身の価値観・行動原理がこんなに簡単に他人に影響されるような薄っぺらい人間が、いかにも「私は遵法精神旺盛な模範的市民ですよ」と言いたげに信号を守ってるかと思えば、突然「先に渡った奴が悪い」という思考回路に切り替わる、こんなのが相手ではおよそ法律などお説教以上の力は及ぼしえないでしょう。
まず、「自身に直接関係ない他者の行為が法より優先的な判断基準となりうる」というのが最低ですね。他人の後に続いて赤信号を渡るというのは、他者の悪行は自身の同罪の(少なくとも精神的な)免罪符たりうるという考えによるものです。
暴動のさなかであれば、どさくさ紛れに関係のない人間をボコボコにしても良いのでしょうか。通り魔を目撃すれば自身も人を刺すことが許されるとでも思っているのでしょうか。
程度の問題こそあれ本質的に同じことですし、そもそも悪の程度はここでの議論で問題としていません。
悪行そのものを問題にしているわけではないのです。法律なんて、場所や時代によって大きく違うものですし、そこに人間としての絶対的な評価を持ち出すのはナンセンスです。(宗教関係なんてその最たる例でしょう。)

真に問題なのは、奴らが自身の中にある程度まとまった善悪の観念や行動原理を持ち合わせていないということです。
たとえ違法でも自らの信念に従って行動し、民衆や世界から賞賛される人間は沢山あります(例えば人権運動家など)。一方、それが悪として裁かれる人もまた少なくありません(戦犯やテロリストなど?)。
しかし、彼/彼女らの行為は本質的に「法より自らの信念が優先される」という点において同一です。実際、善悪の評価が時代と共に入れ替わった人も枚挙に暇がありません。一方で、「信念より法が優先される」という価値観は一般的な法治国家で望まれる市民の在り方ですし、そうある人々はそうでない人々より圧倒的な多数でしょう。
しかし俺は、このどちらもまたある観点からは本質的に同じだと考えます。それは、「自身の行動に合理性を見出だしていること」です。理屈を付けられるという次元ではなく、はじめから持っている理屈に沿って行動を選択できるということです。しかし、他者に続いて赤信号を渡る輩にはそういった行動の核がない。

周囲の人間の猿真似をするだけなら、群れで空を飛ぶ鳥にだって、群れて川を泳ぐ小魚にだってできることです。コンピュータなら、5分もかけずに理解できる程度の簡単なプログラムで再現できてしまう程度の稚拙な振る舞いです。
他者の言動のみによって決定されない自身の価値観があるからこそ人間としての意思決定に尊さが認められるのであって、ピンセットでつまめる程度のサイズの脳と同じことしかできないような腐った肉塊の、一体どこに知性が宿っているなどと言えるのでしょう。
奴らはヒト未満です。自分の行動も自分で決められないようなら人間名乗るのをやめてしまえ。

我々はそういった愚かで矮小な存在になりたくない。いや、なってはいけない。
自身の言動を自ら決定しその責任を負うことができる、それこそ人間の知的生命たる所以であり、人間の尊さの根源であるのではないでしょうか。ならば我々は自らの価値を賭けてこれを体現するまでです。


というわけで、俺はこれからも一番乗りで赤信号を突き進み続ける一番星でありたいと思います。
そして運悪く警官に咎められた暁には、素直に叱られ、或いは罰を受ける覚悟です。