2013年10月17日木曜日

子供「おなかとせなかが くっつくぞ♪」 …しかしここでひとつの疑問が生じる。

『おなかのへるうた』
どうして おなかが へるのかな
 (生命の維持や肉体の稼働にエネルギーの消費が必須であり、その補給が不可欠だからである。しかし、「何故腹が減るという感覚が発生するのか」という問いに対しては、エネルギーの補給を本能という強いレベルで強制し完遂するためであると答えるのが適当であろう)
けんかをすると へるのかな
 (ケンカにより平常時よりエネルギーの消費が激しくなることは間違いないと考えられる)
なかよししてても へるもんな
 (ケンカは腹が減る一因に過ぎず、ケンカをせずともエネルギーの消費は止まらない。また、仲良くすること自体もエネルギーの消費を必要とする行為・状態であることに留意すべきである)
かあちゃん かあちゃん
 (この箇所は父子家庭等の一部の子供への配慮が必要であろう)
おなかと せなかが くっつくぞ
 (!!??)


日本の童謡には謎が多い。個人的には
「童謡『ふしぎなポケット』におけるポケットを叩くとビスケットが増える事象について、枚数の増加をビスケット破砕のメタファーと考えると幾何級数的増加が想定されるにも関わらず、ビスケットが一枚ずつしか増加しないメカニズム或いはその歌詞の意味に関する考察」
とかも捨てがたいテーマだが、今回は上記の『おなかのへるうた』について考察しよう。

●「おなか」と「せなか」の定義の曖昧さ
・脇腹
脇腹が脇か腹かと問われれば、多くの者が腹だと答えるであろう。そして、脇腹は背中の皮と一枚続きである。
すなわち、脇腹の背中側において腹と背は初めからくっついているといえるのだ。
・臓器
少なくない臓器が「腹」と呼ばれる。腹が痛いと言えば高確率で筋肉か内臓だ。そして、背骨は名前の通り背中であろう。
これらの事実の意味するところは、腹(臓器)と背(骨)は初めから接しているということだ。

以上のことから、腹と背は身体の内外で「くっついて」いる。
しかし歌詞では、まだくっついていないことになっている(この点には議論の余地があるかもしれないが)。すなわち、この歌では腹と背の定義が極端に狭いことがわかる。

●歌詞の曖昧さ
「おなかとせなかが くっつくぞ」の箇所は、回避行動を怠った場合に想定される未来を予言しているともとれるし、食事を強制するため何者かに脅されている(或いは何者かを脅している)ともとれる。
どちらの解釈においても、歌の時点で腹と背はくっついていないことが読み取れるから、以降はこのことを前提として議論を進める。

●腹が減るということ
そもそも、腹が減るとはどういうことなのか。
「おなかとせなかがくっつく」という表現から、胃か腸の内容物の減少と考えるのが妥当な解釈であろう。
前述のように腹や背の定義が狭いと考えると、これらの解釈には不自然な点は無いように思われる。

しかし、童謡である。多少の理不尽が許容されることを考慮すれば、「おなかがへる」という表現が言葉のままの意味である可能性はあり得ないだろうか。
この童謡を聞かせる・歌う対象となる児童は、腹が減ることを本当に「おなか(そのもの)の体積が減少する」ことを想定していることも十分に考えられ、この解釈が不自然だとは言い切れない。

●そもそも本当に腹が「減っている」とは考えられないか
空腹になることと腹が「減る」ことを同一視するには、「腹とみなせる器官の内容物が、その器官或いは腹の一部であるとみなせる」ことが必要かつ十分であろう。
では、ここで想定すべき腹の内容物とは何か。無論、胃なら食物、腸なら排泄物である。
では、これらは我々の肉体の一部と考えられるのだろうか?

食物はそのままでは我々の一部ではない。
食物を口に入れる。
咀嚼し、唾液で一部成分の分解がはじまる。
飲み込み、胃へと落とす。
胃の内部で分解・消化される。
次の消化器官(小腸?)へと送られ、養分が吸収される。
残りカスの水分が大腸で吸収される。
排泄される。

上記ステップのどこからどこまで、食物は我々の肉体の一部だと言えるのだろうか。
まず、養分が吸収された時点から我々の一部であることに異論はないだろう。
ではそれ以前、たとえば食物を飲み込んだ段階ではどうなのか、ここでは意見が分かれる。
これが水だともっとややこしい。
水を摂取すれば、胃液と混ざり一体となる。ということは、水ならば喉を通過し胃に入った時点で我々の一部となっていると言えるかもしれない。
しかし、ここでまた別の疑問が生じる。胃液は肉体の一部と言えるのか?
これはなかなか微妙な問題だ。
たしかに胃液は肉体で生成されるが、常に肉体と分離されており、嘔吐により、完全ではないにしても即座の排出が可能である。
水の場合と似ているのが、二酸化炭素である。二酸化炭素を構成する炭素は肉体の一部であったものだし、二酸化炭素が肉体で生成されたことは間違いない。しかし、血管から肺へ出てきた、呼吸により排出可能な二酸化炭素は、果たして肉体の一部だろうか?

ここで疑問点を少し整理してみよう。

1. 即座に排出可能である胃液は肉体の一部か否か。
2. また、同様に即座に排出可能な二酸化炭素や排泄物は肉体の一部か否か。
3. 同様に即座に排出可能である消化中の食物は肉体の一部か否か。
4. 3がnoなら、食物はどの時点から肉体の一部とみなせるか。

空腹時には胃の中に食物はほとんど無いであろうから、上記の3がyesならは、空腹と腹が「減る」こととは同義と見なせるであろう。

逆に、3がnoならばどうか。
この場合は1と2を考慮する必要がある。
まず、2がyesならば3もyesとするのが自然であるからここでは考えない。

1と2が共にnoであるなら、「即座の排出が可能でない器官を肉体の一部と定義する」という一貫した視点があるのだろう。この場合、抜けかけの乳歯や爪などが肉体の一部と考えられるか否かで別の疑問が生じるが、少なくとも食物についてこのような曖昧さは無いのでここでは議論しない。
この観点からは、腹の内容物の増減こそあれ、腹そのものは「減る」ことがないと結論できる。

では、1と2で答えが異なるとすればどうか。考えられるのは「肉体にポジティブな作用を及ぼすか、そうでないか」の差異による判定である。胃液は消化に貢献するが、二酸化炭素や排泄物の排出は、不要物を捨てる以上の意味はない。
この観点で見ると、食物はその一部とはいえ肉体や生命の維持に貢献するから肉体の一部と考えることができる。
つまり、空腹を腹が「減る」と表現することに正当性を見出だせるのである。

●だからなんなの
ここまで、腹と背はくっつくものか、加えて腹は本当に減っているかどうかについて考察した。
そして、
・腹と背がはじめからくっついている説
・腹と背はくっついていないが、腹は「減る」ものであり、子供がそれを怖れる(ことを想定している)説
・腹と背はくっついておらず、そもそも腹も「減る」ことはない、減るのは内容物でありこれは腹そのものとは見なされないという説
の3つの説を発見し、それぞれについてその根拠を得た。

我々が何気なく歌ってきた童謡にここまでの自由度があること自体は驚くに値しない。いわゆる、大人の視点から解釈した児童文学などに見られる、曖昧さを原因とする解釈の可能性の広さ(すなわち奥深さ)と同質のものであろう。
しかし、文学や和歌においてこうした考察は盛んに行われているが、童謡についてそうした話はなかなか聞かれない(童謡『かごめかごめ』などはその数少ない例外である)。

我々は幼少期に刷り込まれた知識ほど根拠なく受け入れ、頑なに信じこみがちである。
だからこそ、新たな知識や思想をもって、自らの感性や思考の基礎となっているかもしれない幼少期の知識や記憶を整理し再解釈を行い、矛盾や不合理の排除を試みることは重要であろう。
今回の考察をその試みのひとつとして、皆さんの意識の中に埋もれる曖昧な基盤を安定させ、より強固なものにすることに貢献できれば幸いである。




珍しくマトモ系の文章書いたら疲れた……
今更ですが、コメント欄が解放されたので意見などあればそちらにどうぞ。
では、アディダス! (スペイン語で「さようなら」の意)(頼むから流行れ)

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