2012年8月29日水曜日

「用意、ドン」〜"悩み"の意義〜

どうも、悩むこと関しては誰にも負けねえズミです。
(キャスト陣はよーくご存知のはず)


無意味だ、無駄だ
「悩み」をそう捉える人も多いこのご時世ですが…

俺はそうは思いません。

確かに、結果論から、
「悩むことなかったな」
ということはよくあります。

その意味では、見込みのない、かなり非効率な行為といえるでしょう。


しかし、悩む過程で物事を真剣に見つめ、自己と向き合うことは、無駄なことなのでしょうか。

仮に、そうだとすれば

僕らの人生の意義ってなんでしょう、効率よくあることでしょうか?


これは自論ですが
人生の意義は「成長」にあるのだと思うのです。

蓄えた富(ここでは広い意味で人間関係や自己の成果)も、いつ消滅するとも限らないですし

結果論からいえば、生物の存在、つきつめて人生というものは、極めて非効率で無駄なものです。

それでも生きる、それが何かを残すため、目的ための手段としてある行為でないなら、寧ろ生きる過程そのもの(生まれて成長して老いて死ぬこと)に意義がある、或いはそう解釈するより他ないでしょう。


人は悩むことで次の段階へ進めるものではないでしょうか。

悩みのあとには、過去の自分が小さく思える、それがいい証拠です。


忙しい環境下では「効率的な」行動が求められ、
「悩んでる時間なんてあってはならない、いや、だいたい悩みなんてない」
と無意識のうちに、悩みから逃げてただがむしゃらに走るような日々を送りがちです。

しかし、忙しいのは周囲だけではありません。
今、若いこの時、自身の内面もめまぐるしく変わっていく激動の時です。

意味も分からずがむしゃらに走るだけでは得られるものは少なく、また自分を見失うこととなるでしょう。


だから、あえて自ら立ち止まってみること、「悩む」ことも重要なのです。

走り出す前の、小休止が


きっと、このクラスの面々は、突っ走ることに関しちゃ強いはず(笑)

では、2週間切った文化祭へー「用意、ドン」

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